「トランプ大統領の敗北、バイデン氏の勝利は陰謀である」という言説は、なぜ蔓延するのか?(仲正昌樹)
■小沢一郎、小保方晴子、トランプ大統領を教祖化する人々
二〇一四年のSTAP細胞問題の時も同じような言動の人たちが登場した。分子生物学や基礎医学の専門家が、公表された論文通りのやり方ではSTAP細胞を再現できないことを示したにもかかわらず、ファンの人たちは、海外のサイトから“情報”を仕入れてきて、「STAP細胞の存在は海外の研究者によって証明されているのに、日本人は騙されている」「小保方さんを潰す陰謀のせいで、国益が大きく損なわれている」、と自信満々に語っていた。
小保方さんを支持する自分たちこそ、分子生物学の最先端を分かっている人間であるかのように。
現在進行中のコロナ問題も含めて、その領域の専門家でも意見が分かれるような問題で、“並みの専門家を越える知識”を誇るネット論客がしばしば登場するが、小沢さんとか小保方さんのようなカリスマが脚光を浴びると、そこに、教祖にどこまでもついていこうとする教団のような雰囲気が加わってくる。
多角的に情報を収集できるはずのネット社会で、どうしてこうした擬似宗教的なクラスターが発生するのか。
エーリヒ・フロム的に言えば、普通の人間には、何を信じるべきか自分で決めねばならない自由が、本当のところ耐えがたいからである。現代社会に生きる我々は、「マスコミや政府が発する一面的な情報を信じるな。ネットを駆使して、自分で真実を探れ!」、と絶えず“啓蒙”されている。
それをビジネスにしている人たちも少なくない。オウム真理教のアルマゲドンの言説やライフスペースの「定説」も、そうした“啓蒙ビジネス”の先駆だったのかもしれない。
自分たちだけが、他の人々に先駆けて、特別に“真実”を知っていると言われると、選民意識を刺激され、神の全能に近付いたような気分になる人がいる。しかし、自分独自の情報収集だと、自信が持てないので、いざという時に寄りかかれる絶対的な権威が欲しくなる。ただし、宗教は非合理的な人間が依存するものだという先入観と自分は合理的な人間だというプライドがあるので、露骨な教祖様に従うことには抵抗感もある。
そういう人にとっては、日本の政界の表も裏も知り尽くしている小沢さん、ビジネスマン出身の大統領としてアメリカ社会の闇を知り尽くし、中国の野望をうち砕いてきたトランプ大統領、ハーバード大学に留学し、若くしてノーベル賞級の論文を《Nature》誌に発表した小保方さんのようなキャラは、一番落ち着きがいい権威なのだろう。だから、一度信じたら、なかなか疑えない。ようやく見つけた“客観的権威”を失ったら、どちらを向いたらいいか分からなくなるからだ。
■“客観的権威”の妄信はどうしたら克服できるのか?
こうした“客観的権威”の妄信はどうしたら克服できるのか?
誰にでもすぐ効く処方箋などあるはずないし、そういうものがあるという発想自体が転倒している。ただ、自分にそういう傾向があると自覚している人が、念頭においておくと、多少有益だと思えるポイントはいくつかある。
第一に、ネットの発達によって様々な情報を入手できるようになったのは確かだが、自分の情報収集・処理能力には限界があり、全ての問題に精通することはできないし、ある特定の領域に限っても、一〇〇%確実な情報を得ることなどできないことを、絶えず思い出すこと。“ネットを通じて真実が見えてきた”、という気がしたら、危険な兆候だと思うべきである。
第二に、全てのことについて正しい判断ができる人間などいないこと、たとえいたとしても、誰がそういう人か見分ける能力が自分にはないことを、絶えず思い出すこと。そのような権威を求めているとしたら、自分は教祖を求めているのだと自覚すること。
第三に、既存の情報を批判的に吟味する姿勢を持とうとするのであれば、その姿勢を中途半端なところで放棄しないこと。全てを疑う姿勢を保持しようとすれば、相当な労力が必要である。生半可な決意で疑っていると、途中で疲れてしまって、「これだけ疑ってきたのだから、私には真実を見抜ける批判的な視座が身に付いたはず」、と思いたくなる。それが間違いの元である。
第四に、ある情報ソースについて、一〇〇%信じるか、全て嘘だと決めつける、オール・オア・ナッシング的な態度を捨てること。「〇〇の問題については、△△の条件を満たす専門家あるいはメディアの見解を、□□という限定付きで、取りあえず信用する」という是々非々の姿勢を徹底すること。加えて、自分の拠って立つ〇〇、△△、□□は、できるだけ明確に言語化し、他人に説明できるように準備しておくこと。説明できないものを信用しているのに、自分は信者ではないと思っているとしたら、かなり危険である。